はじめに
私は、日本の兵庫県尼崎市から来た大気汚染公害患者です。
尼崎市は1995年の1月17日に起こった阪神大震災の被災地の一つです。
尼崎の大気汚染が悪化し始めたのは、昭和20年代の終わり頃からです。それは日本が戦争に負け、工業都市が空襲のため廃墟と化し大きな都市が焦土となり、戦後無気力に陥っていた国民に復興への意欲をもたらすために高度成長、所得倍増論、日本列島改造とやつぎばやに戦後復興説を出し、あらゆる手段を通じて国土の建設、産業優先の政策、一日も早く世界の国際社会と肩を並べるための生産活動が昭和20年代後半から50年始めまでの間に、ものすごい大気汚染を引きおこしました。
昭和30年代前半には30m先が見えず、昼間でも車はライトをつけないと走れず、ノロノロ運転が続く状態でした。
自然の姿は目にふれないし、空はたえずドンヨリと曇っているよう、鳥や昆虫、草花の姿は見えませんでした。その時分から、工業地帯において、咳や痰、風邪を引いてもなかなかよくならないという人が数多くなってきました。
尼崎においても、特に南部工業地帯の住民からこのような症状をおこす人が多くなりました。しかし、それが工場群よりはき出される煙のせいだとは、住民は気がついていませんでした。昭和30年代の終わり頃他市より尼崎へ住居を移された方々より「空気が汚い」「空気が臭い」との声があがりました。その方々の中に学校の先生を中心にしてその周辺の空気の測定が始まりました。その頃より児童の中から喘息症状をおこす子供が非常に多くなりました。
一地域の住民から始まった大気汚染の測定、昔から住んでいる人達は始めは「尼崎に住んでいたらこんな状態は当たり前」との思いがありましたが、粘り強い説得と運動、広範な人びとへの呼びかけで、自治体をも動かす力になりました。
そして昭和45年11月に尼崎市条例「公害医療救済制度」が施行され、同じ12月に国の「特別措置法」の第一種指定地域(第一次)に認定されました。
国の認定を受けた患者や医師、そして尼崎の空気の汚れを住民に教えてくれた教師、加藤先生等が中心になり、昭和46年6月に「尼崎公害患者、家族の会」が発足しました。しかし、どこに認定患者が住んでいるのか全然わかりませんし、何をどう伝えるのか、宣伝のしかたもわかりません。せっかく「患者会」は出来上がったもの、会員はほんの数える程しかおらず、会員の拡大のために、とにかく患者さんを探すのが第一の活動でした。
医院の窓口に貼紙をさせてもらったり、ニュースやビラを作って近所の郵便受けに入れたり、患者さん達と必死で会を大きくするために頑張りました。
医院の待合室で一日中座って、患者さんを見つけると住んでいる所を探しあて、後日、何人かで尋ねていって会の話をして会員になってもらいました。
当時はまだ公害の事があまり知られていなくて、せっかく患者さんを探して尋ねていっても、保険や新聞の勧誘と間違われたり、わざと水をかけられたり「私んとこは公害なんかとちがう」と門前払い、伝染病の如く嫌われたり、又、自分自身の家族の中でもなかなか理解を得られず、病気とそして心の中で社会悪を憎む気持ち、家族にわかってもらえない苦しみを抱きながらも、患者さん達と血のにじむような努力で会員の拡大を少しづつですが作り上げてゆきました。
そうした中で、患者だけが少しだけ救済されても尼崎の町はきれいにならないし、患者はどんどんふえてゆく、やはり最大の公害源である関西電力の古い工場を廃止をめぐって自治体を間に入れ、大きな市民運動の輪を拡げ、やっと昭和48年11年関西電力の尼1、尼2の操業を停止に追い込みました。
同年、尼崎の公害発生企業より「尼崎市公害病認定患者の救済に関する条例」が実現、基金として7億4千万を拠出させ、患者の保養施設を空気のきれいなところに建設させました。この企業の基金については、行政や市議会に何度となく陳情して、自治体ぐるみ動かした運動と共に患者の尼崎市における市民権を保つことが出来、又、保養施設とは別に、患者の健康回復のための施設(温水プール児童用)を作る事も成功しました。
昭和49年9月には世界に類をみない「公害健康被害補償法」が施行されたのです。