私が西淀川区に来たのは1968年、病院設立のためのオルグとしてでした。わが国におけ る住民による民主的な医療機関設立の運動の歴史は古く、戦前にも無産者診療所運動が都 市部で広がりをみせ、こうした流れが戦後の民主化や社会保障制度の前進の中で開花した ものです。
私が従事した民主的医療機関設立の運動は、地域住民の生活と健康を守る運動と連動し たものでした。西淀川区は、機械金属工業をはじめとする中小工場とそこに働く労働者の 安アパート、零細な商店がひしめく低所得者層の多い下町です。私は、地域に一日も早く なじむために、毎日公園のグラウンドに野球道具とアメ玉をもって立ち、子どもたちを集 めては、一緒に野球をしたのです。そこに集まる子どもの一人に、今もその名前や顔も忘 れられない小谷君がいたのですが、彼はひどい気管支喘息に冒されていたのでした。彼を 通じて、私は大気汚染公害による病気の悲惨さと、そうした病気を持つ住民のあまりの多さに目を向けるようになりました。
当時の西淀川区は、あまりの大気汚染のひどさに、飛ぶ鳥が落ちてくる、昼間でも車や 電車がライトをつけて走るといった、信じがたいような光景が現実のものでした。 わが国では、戦前から健康保険制度はありましたが、本格的な国民皆保険制度になった のは1960年からでした。国民の中で健康保険制度が定着することと両輪の輪のように、医 療機関も発展してきました。地域住民をしっかり捉えることが医療機関の経営の基本とな ったわけです。そうした医療制度面な裏付けを背景に、西淀川区では、地域の公害患者を しっかりと把握することが、地域に根ざした民主的医療機関の使命でもあり、経営安定の ための戦略でもあったわけです。
公害が原因で苦しむ患者の医療費を減免する特別措置法が1968年に制定され、その後 1970年に入り「四大公害訴訟」が住民側の訴訟となり一気に被害者運動が盛り上がりまし た。西淀川では1972年2月から約半年間かけて、公害患者の組織に東奔西走しました。し かし、どこに住んでいるかわからない、しかも公害病への偏見や差別、または自分自身の 病を公害病とは認識していない人も多く、組織化は本当に大変な活動でした。最初の3ヵ 月は、区内の街の辻々、約百カ所に立ってハンドマイクを握り、各家に相談会のチラシを 配って歩きました。「西淀川公害患者と家族の会」の結成集会には小学校の講堂に約四百 人が集まりましたが、その多くは公害患者というよりも、「公害をなくせ」と怒りをつの らせて来たという人たちでした。しかし、四日市公害裁判の画期的な判決の学習会を地域 で開催していく中で、自分たちのこの苦しさは企業の責任で救済されまべきものなのだと いう認識が広がり、患者の組織化が進んでいきました。
公害患者会が発足した後は、西淀川医師会が公害病患者の健康管理のための建設した公 害医療センターの窓口に私が座って、来る患者、来る患者に、受付と同時に公害患者会の 入会申込書を手渡したのです。また、医師会の各会員も、患者に直接入会するように進め ました。このように、公害患者会と医師会は二人三脚のような関係で公害患者の組織化を 進めたのです。医師たちの献身的な援助なく、今日の公害患者会はありえないとも言えま すが、そうした活動を促したのは、前述のような背景があるのです。
翌1973年3月には、西淀川の公害患者二百人が大阪市長室前に不眠不休で座り込み、何 人もバタバタ倒れて、救急車で運ばれるような事態の中で、西淀川区内だけを対象とした 「要綱患者救済制度」という公害患者を市の要綱で認定し、西淀川区内の企業から拠出金 を使って公害患者の医療費と生活費の一部を補償する制度をかちとりました。
この頃、全国で革新自治体が次々と誕生していたこともあって、この制度は全国に広が り、四日市判決の影響もあって、全国制度を環境庁(準備室)は作らざるをえなくなりま した。独自制度で先行していた私たち西淀川の患者会や医師会、大阪市の行政関係者は、 連日のように東京に呼び出され、環境庁(準備室)の官僚と新しい公害被害者の救済制度 を、条文の一字一句に至るまで検討したのでした。それは1973年の夏のことです。約3ヵ 月の短期間、集中的に作業した制度の輪郭を固めました。
様々な事情で、制度発足は翌1974年9月になりましたが、その直後から今度はこの制度 を活用する自治体を大阪府下全体に広げる運動を始め、各地の公害患者の組織化、医師会 や自治体への働きかけのために、走り回りました。こうして1977年には大阪公害患者の会 連合会が組織され、さらに1981年、全国の公害患者の連合組織も結成しました。
他都市の公害患者会の幹部が書いているように、公害患者会が組織されていく過程は、 それぞれの地域の特徴があって、例えば倉敷では市民運動先行型であり、隣の市である尼 崎では松さんという主婦パワーが機関車となりました。しかし、全国連合会が発足してか らは、大気汚染公害患者に関して言えば統制のとれた統一行動が展開されるようになりま した。ある地域の公害裁判が山場となれば、全国から動員して支援する体制もとれるよう になり、強力な力を発揮したのです。
1976年には、水俣病やイタイイタイ病、スモン病、カネミ油症等々のあらゆる公害病の 被害者組織の連絡組織(全国公害被害者総行動実行委員会)を結成して、私はその事務局 長を任じられています。毎年の公害被害者総行動(6月)での環境庁長官との直接交渉等 を通じて、わが国の公害・環境政策に対する最も強い影響力を発揮しているのです。
公害裁判との関係については、他の患者会の幹部や弁護士等が論じていますから、ここ では触れませんが、これまでのたたかいの歴史を振り返って、ひとつだけ反省点を述べた いと思います。
これまで公害裁判をたたかい続けるために、数多くの患者に苦しい思いを余儀なくさせ、 たたかいについてこれない者は脱落していったのが実情です。西淀川に関して言えば、被 告企業とのたたかいは終わりました。18年間のたたかいをふりかえってみて、数多くの公 害患者とその家族がこれまでよく我慢してついてきてくれたと、心から感謝しています。 しかし、公害患者の多くが、認定の打ち切りということもあって、高齢化し、いつ襲うか わからない発作への恐怖とともに、老後の不安をつのらせています。これからの患者会の 活動は、公害患者の一人ひとりが、これまで頑張って生きてきてよかったと言えるような、 心あたたまる生涯をすごせるように、奮闘しなければならないと決意を新たにしています。 そのためにも、和解の成果を、健康的で、楽しい暮らしができるまちづくりと、患者一人 ひとりの健康づくりや生きがいづくりに役立つ活動を再構築したいと考えています。