水島の大気汚染公害は、静かな農漁村だった地域に、1950年代から水島灘が埋め立てられ、電力・石油化学・鉄鋼・自動車・造船及び食品にいたる大コンビナートが建設され、次々に企業の立地建設が始まり、1960年代からの操業開始と共に発生しました。以後1970年代半ばまでに急激に操業を拡大し、汚悪煙を大量に排出したため、喘息などの健康被害が発生しました。 1960年代後半にはいると連日のように、注意報・警報がだされるようになり、1969年2月には、連日SO20.42,0.43,0.32ppmという殺人的高濃度に包まれ、老人と小児など多数の住民が突然発作に苦しみました。
1969年、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法が施行され、1974年公害健康被害補償法が施行されました。水島の公害患者も再三、県・市・環境庁に、この法律の適用を陳情・請願しましたが、市長はガンとしてこれを受け付けませんでした。しかし、公害病患者に企業の責任で完全補償を!と、公害防止市民協、公害をなくす会、その他 の民主団体が支援に立ち上がりました。患者とそれを支援した人々の血の滲むような闘いが繰り広げられましたが、指定申請が遅れたため、倉敷市は補償法の実施に間に合わず調査対象地域にとどまりました。1970年代後半になると企業の住民壊柔政策は巧妙化し、「仕事をとるか、公害をとるか」「企業あっての住民」と宣伝しましたが、激しい闘いが再三繰り返された中で、市長も市議会も、地域指定承諾を決定し、1975年12月、正式に環境庁より指定地域の決定が通知されました。
1976年からは毎年「全国公害被害者総行動デー」が取り組まれ、今年20回目を迎え来年から新たな取組を検討しています。
環境庁は、1978年二酸化窒素の環境基準を、国民の大反対を押し切って緩和し、倉敷市は、これと軌を一にして、公害企業との密約にしたがって「倉敷市特定気道疾病医療 費給付条例」の廃止を強行しました。
公害患者は加害企業との話し合いを求めた。企業に会見を申し入れしたが、門前払いしました。公害健康被害補償法の地域指定解除策動が進行する中でもはや倉敷の公害患者は裁判に立ち上がるしか道はありませんでした。1983年11月、水島の大企業8社を被告として、やむにやまれず提訴しました。
1994年3月画期的勝利判決を勝ち取りましたが、高等裁判所で係争中です。1995年3月西淀川公害裁判は、被告企業に加害責任を認めさせ、街の再生基金を含めて損害賠償を支払わせ解決しました。7月には自動車の排気ガスによる健康被害も西淀川の裁判で認めさせました。国道の道路公害では最高裁判所が国の加害責任を認めて被害者の共済を命じました。被害者は確実に一つ一つ勝利してきました。時間はかかっても正義は必ず勝利するものです。