川崎はかつて東海道の宿場町と川崎大師の門前町として栄え、多摩川と二カ領用水と海にはぐくまれる農業と漁業の盛んな地域でした。臨海部は、明治時代より遠浅の東京湾を埋め立て工場立地が進み、1960年代からは高度経済成長政策の下で四日市等と並び「拠点開発方式」で大規模なコンビナート基地がつくられました。幹線道路網はモータリゼーション化の波により工業の過密化を加速し、自動車交通量の増加と交通渋滞を引き起こしました。産業の発展を優先し地域住民の生活と健康を無視した結果、工場からの排煙と自動車排ガスによる大気汚染による深刻な公害を発生させました。
川崎公害訴訟は1982年、コンビナートの企業13社と幹線道路を管理する国、首都高速道路公団を被告として提訴し、原告総数は440名(1~4次)に達しました。15年間の闘いを経て勝利判決をテコに1997年、13企業との間で和解が成立し、企業は謝罪し公害防止対策と解決金の支払いと「さらに一層、地域の環境改善をはかってゆく」ことを約束しました。解決金の一部は「環境再生とまちづくり」基金として提供されています。
企業との勝利和解後も依然として大気汚染の状況は深刻で、道路沿道を中心に広範囲に広がっていました。学者、研究者の組織「かわさき環境プロジェクト21」を立ち上げ、実戦部隊としては患者を中心に「かわさきまちづくり隊」による被害者の立場からの政策提言が行われました。2年後の1999年、国・公団と和解が成立し、「道路連絡会」が設置され、和解内容に則して環境対策を実施するための機関が立ちあげられ検討を重ねています(12回開催)。また川崎では自治体との交渉を重視し「川崎市との検討会」が並行的に行われています(30回開催)。
川崎では、裁判解決後も三者が解散することなく、和解後の課題を追求するために(1)被害者の救済、(2)公害の根絶、(3)環境再生とまちづくり、という3本柱を課題の中心に据え活動しています。「被害者の救済」の課題では、増え続けるぜんそく患者の実態に即した運動を展開し、全国で初めて川崎市に「成人ぜん息患者医療費救済制度」を制定させました(2007年1月より施行)。まちづくりの課題では、環境に配慮した「国道15号の環境改善事業」が進行し、今年その記念碑建立が行われます。公害患者など弱者の視点から地下街や川崎駅東口駅前広場の改善など私たちの要求が実現されています。年に1回行われる「公害・環境、健康まちづくりフェスタ」は、まちづくり、環境、平和問題などを考えあう場として第15回を迎えます。市内の小、中学生を対象とした「環境・まちづくり」作文、絵画コンクールも6回を重ねました。市民を巻き込んだ運動が一歩一歩前進しています。